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ブッダの実在

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インドのコルカタにあるインド博物館に、仏陀の遺骨が展示されています。

ピプラワ(Piprahwa)というところから発掘されたものですが、この発掘はその発掘物以上に重要な意味がありました。

仏陀の存在です。

当時大英帝国の植民地となっていたインドですが、インド人の生態や宗教など、植民地支配と平行して様々な調査も行われていました。

インドがイギリス植民地になるまでは、インドは名目のみでしたが一応覇権を握っていたのはムガル帝国でした。イスラム教の帝国。

実際はその統治力は衰えていて、インド国内は無法状態だったと言われています。

 

その状態を利用し、大英帝国は統治を上手く進めていった、とも。

 

 

また元来インドに根付いているヒンドゥー教の勢いもあり、AD 10世紀ぐらいまではインド中を席巻した仏教でしたが、その後はイスラームとヒンドゥの攻防とイスラームの統治によって仏教は消され、仏教信仰はインド亜大陸にはもはや残されていませんでした。

そのような状況下、西欧の学者の間ではこのブッダと言われる存在の真偽は疑われていました。

「非実在の人物像を称えている宗教であろう」、または「その他の宗教体系によく観られるような太陽崇拝の形式の変形であろう」と。

ではいつ、仏陀が一人の実在した人物として存在したことが分かったのか…

これが、このコルカタにある聖遺物の発掘につながるのです。

コルカタのインド博物館には、ペッペ(William Claxton Peppé)というアマチュア考古学者が1898年に発掘した骨壺があります。

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ブッダが幼少期を過ごしたカピラヴァストゥ(Kapiravastu)であると思われる、ピプラワ(Piprahwa)で発掘しました。

カピラヴァストゥというのはブッダが幼かった当時、釈迦族の王都があった場所です。

ブッダの父“浄飯王”もいた場所です。

 

そこにあった丘のような所を掘ると、ストゥーパが現れた。

それは大きなストゥーパに土砂が6mほど積もってできた丘だった。

さらにその中心を掘り進めると、大きな石棺が見つかった。

そしてその中には、骨壺と宝石の入った壺。

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アマチュア考古学者だったペッペはそれを発掘した後、近くに滞在していた2人の考古学の権威へ、すぐに手紙を書きました。

 

1人はイギリス人考古学者ヴィンセント・スミスVincent Smith。そしてもう1人は、イギリス政府により考古学調査のために雇われていたドイツ人考古学者ヒューラー(Alois Anton Führer)。

史実はこうなっています…ヒューラーは仏陀の生誕地であるルンビニーを事実発見した人である。そこにあったアショーカ王の奉勅を発見・解読し、ブッダという人物がルンビニーで生まれたという、世紀の発表をする。

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しかしヒューラーは山師とのつながりが深く、発掘とともに数点の遺物を捏造して公表などしたとされる。そしてすぐにその責任を問われ、解雇。

 

このスキャンダルの中で、ペッペの発掘調査にも疑いがかけられる。ヒューラーが関わっていたからだ。ヒューラーとペッペは2人で画策し、捏造した骨壺などをあらかじめ石棺の中に入れたりなどしたのではないか、など。

そしてその時イギリス政府はまた、ペッペが発掘した遺物-未だ真か偽かに疑いがかけられていたのにも関わらず-を、シャム王国(現タイ)の王ラーマ5世(本名チュラロンコン)に贈与したのでした。

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ヒューラーはそのまま強制的に、国外退去。

インドから母国のドイツに帰り、教会の司祭になっています。

そしてヒューラーがそれまでに発見してきたものも、疑惑の観点より全て封印されます。

このようにヒューラーは国外へ/発掘物も国外へーとなったのが、1899年。

しかし1900年の4月、王立アジア協会へこのペッペの発見を紹介する際、当時の協会長トーマス・デイヴィッズは、「この件に関して贋作であるという仮説もあるが、単純に、そうであろうとは考えにくい」と述べています。

しかしその後70年以上もの間、このブッダの人物像に関する調査は、打ち止めとされたままなのでした。

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1971年、再び発掘調査の許可がおり、調査が再開。

今度はインド人考古学者シュリヴァスタヴァ博士が主導となりました。

ペッペはピプラワのストゥーパを3mほど掘った位置から石棺を発見しましたが、今回はそのさらに深くを発掘。

そこからさらに聖遺物が見つかりました。

それらはまさしくブッダの生きた時代のもので、現在その遺骨はデリー博物館に所蔵されています。

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また、ペッペが発掘した骨壺に書かれていたブラフミー文字も、2013年になって再解読されました。

 

およそ100年前「ブッダの遺物」と書かれたこのブラフミー文字もヒューラーによる捏造ではないかとされ、またそれでもその後数人の専門家により解読の努力がされましたが、ずっと置き去りにされていました。

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しかしこの2013年に明確に認識できたことには、ここに書かれた単語「容器」の言い回しは他の発掘物にはなく、この土地独自のものだと。また仮にヒューラーが捏造できたとしても、彼の知識や独創性から推測し、このような文章は書けるはずがないだろう。

捏造というのは、全く同じコピーを作るか、あるいはオリジナルのものを新たに創造してこしらえるか。

しかしこの場合は、それらのどちらも考えられない…。

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「ブッダの遺骨」を巡り、実はもう一つ、世界で初めて明かにされた事実がありました。

ブッダの実在 です。

仏教の原始教典には、様々な史実に基づいたストーリーが描かれていますが、1900年代までは、それが史実なのか想像なのか、証拠がありませんでした。

しかしこのペッペの発見と、もう一つ先ほどのヒューラーの発見により、原始教典の真実性と、そしてブッダの実在が初めて認識されたのでした。

ヒューラーが何を発見していたのかというと、仏陀の生誕地・ルンビニーです。

 

彼は、ペッペがピプラワ遺跡を発掘する一年前に、ルンビニーを発掘調査しました。

そしてアショーカの法勅を発見し、そこに刻まれていたブラフミー文字を解読。

「仏陀の生誕地であるルンビニー」と、はっきり刻まれていました。

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ルンビニー
ルンビニー
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ここで歴史上初めて、実在した人物としてブッダは認識され、また仏典の記載も初めて歴史に裏付けられたのでした。

 

そしてペッペの発見も、

仏典に記載されている内容:

「仏陀の死後、遺体は荼毘に付され、その遺物は八つの国の王たちにより分祀されたー

釈迦族もその八つの氏族の一つで、彼らはブッダの遺物を首都カピラヴァストゥに安置したー」

 

ということが真実であったことを裏付け、さらにブッダの遺物まで明らかになったのでした。

 

参照URL:

https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/a910e1b007720cb60593598be5cd9eda

http://indiasantana.hatenablog.com/entry/20151030/1446219773

http://www.nittaiji.jp/kakuouzan/

http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/53195890.html

https://m.youtube.com/watch?v=yn3lk6xTF24

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