
今日は車で2時間半かけて祇園精舎・シュラヴァスティへ!
いつか宇佐神宮でエラゴンと散歩してる時、
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色…」
という下りが思い浮かんで、いつか行きたいと願っていた場所です。
今、両足で踏みしめています。
ここは仏陀が生きていた時代、コーサラ国の首都でした。
天竺コーサラは金官加羅の首露王へ嫁いで行った許黄玉の故郷です。
アヨーディアという地名がアワド・許を意味します。
宇佐の御許山の「許」の字にも、秘密があるのかもしれません。
それに関しては以下を参考にしてみてください。
参考資料 宇佐八幡は製鉄所
セレンディピティさんより引用
宇佐八幡は製鉄所でした。 「日本人のルーツ」 日本最古の王朝、【天の王朝】とは、約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らがタルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。 続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは、宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。これが、わたしたちの国の第一王朝の始まりです。 日本書紀上、日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた王朝でした。 この時、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を不必要に殺さず、できるだけ生かして新文化の建設に使役しました。 彼らがエビスさん、七福神と人々に親しまれた所以です。 九州国東半島に渡来したエブス人たちの海人は、どこから来たのでしょう? 先ず彼らはレバノンの沿岸都市アルワドからインド中部のロータルに移住しデリーを経てマガダ近くまで移動しました。そしてインド16ヶ国時代には、アヴァンティ国・アウドを王都とするコーサラ国・アンガ国などの太陽(日神)王朝諸国になっていました。 彼らは、後にマガダ国と戦うことになりますが、倭人のルーツは、この人々のなかにあったと思われます。アウドの人々は、阿多隼人として鹿児島に上陸しましたが、日向に入った人々(公孫氏・卑弥呼)はインドネシアのチャム人であったらしい。 ジャワ島東部のスラバヤ北方にマドウラ島があります。ここから海路北上するとボルネオ島のバンジェルマシンに至りますが、そこは古くからの倭冠の基地だったといわれています。 またマドウラ島の人々は自分の土地に愛着を持たず、島々を渡り歩く漁民、船員、商人になりました。この人々は元来インドのマルーワの移民で、エブス人やカルデア人の血をひく最古の海人族の子孫でした。やがて、【山海経】にいう【耶馬提国】が、この地につくられたことからすると、ボルネオ南部の八河地帯が【東表】の本拠であったと考えられ、この後、北九州の松浦郡、すなわち【魏志】倭人伝の末盧国に移動してきたものと考えられます。 そうして、九州の地にできあがった東表国は、後に駕洛国になって朝鮮半島にも進出し金官加羅とも呼ばれました。新羅国は、この金官加羅から独立した分派です。
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シュラヴァスティ…
ここに来るのも、本当に魂の願いでした✨
「祇園精舎」とは、祇園に建てられた精舎ということです。
「祇園」とは、約2600年前、インドのコーサラ国(拘薩羅国)の祇多太子(ぎだたいし)が所有していた林で、祇樹(ぎじゅ)ともいいます。
正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)ともいいます。
5世紀初め、中国からインドへ行った三蔵法師、法顕(ほっけん)の『法顕伝(仏国記)』によれば、コーサラ国の首都の舎衛城(しゃえいじょう)の南門から南へ1200歩のところにあったといいます。

インドに倭人のルーツがある、と言われる所以を感じながら歩いてみました。
〜仏陀在世中に,スダッタという資産家が釈尊に帰依し,祇陀太子のもっていた林を買取り,そこに釈尊および弟子たちのために僧院を建てたといわれ,仏陀はここにとどまって,多くの人々を教化したといわれる。仏教で修行僧が大きな僧院を建てて住んだ最初の事例である。玄奘が訪れた7世紀にはすでに荒廃していたという。
緑の森の中にまだまだ遺跡が埋もれているそうです。
牛頭天王の井戸、というのにも注意しながら歩きました。
井戸はいくつかありました。

スリランカの人たちがグループでいたのと、インド人のお坊さんグループもいました。
ずっと変わらないような風景。
優しくて慈愛に満ちた、心地よい場所でした。
ここに仏陀がいた、というお部屋の場所にも。
仏陀や弟子たちが雨季の期間を過ごした場所だそうです。

犬たちもとても健康そうで、人懐こいのは仏教の聖地に多く見られます。
人々もとても素朴で優しかった。


ジャイナ教の聖者の生誕地の遺跡にも行けました。
とても美しかった。そこにある大きな木が気になって何の木ですかと尋ねたら、キワタの木だそうです。そこにいた案内人のインド人も静かで優しい人でした。
仏教遺跡であるナーランダーやサールナートなどと似ている光景も見られました。


〜祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。 」
と、『平家物語』の冒頭に詠われているところから、特に日本ではよく知られています。〜
さらに、インドのクシャトリアと平安の貴族武士については、以下にも書かれています。興味深いのでぜひ、参考にしてみてください。
BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があって、カッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。

エラゴン曰く、コーサラから50Kmのところがネパールとの国境だそう。
どおりで、北インドはこれまでの場所よりも少し寒いと感じます。 ヒマラヤの風が吹き下ろす場所だからと言うことです。 デリーに行くよりも、ネパールやチベットに近いというのが驚きでした。

祇園精舎から戻ってきて、アヨーディアのサリュー河のガートへ散歩。 とても美しい、懐かしくもある光景。
ここはラーマの生誕地。 鳥肌が立っていました。 明日は早朝から、サリュー河の河畔へ出かけてみようと思います。
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